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成功に「パターン」はない。サラリーマンを経験後、別の分野で成功した人々

こんにちは、マスラオです。

ここ最近、個人の成功について考えてます。

 

成功ってすごく曖昧な言葉ですよね。

曖昧である理由は、成功の定義が人によって違うからです。

人によっては、お金を稼ぐことが成功だし、重要なポジションに就くことが成功の人もいるでしょう。

 

また、世間から成功したと目されている人って、

何だか自分とは違うメンタリティーや才能を持った人だと思っていませんか?

小さい時から才能があるとか、あるいは強く夢を持ち続けた人だけが成功できると。

 

今回は、私自身が最近会社を辞めたということもあり、

サラリーマン経験後に別の分野で成功した人たちを特集してみようと考えました。

 

なぜサラリーマン経験後に限るかというと、

どんなにすごく思える人でも、最初はそのへんにいるサラリーマンだった

ということをわかってもらうためです。

 

一見迷いなく人生を進めていったように見える人たちも、

たくさん悩んで、たくさん迷って、不安な思いを抱えながら進んでいたんだな、

ということがわかってもらえたら嬉しいです。

 

記事では様々な分野から5人を紹介します。

5人とも、各分野の頂点に立つ人々です。

こんな人たちでも、普通にサラリーマンとして働いていたんだと意外に思うかもしれません。

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柳井正(ファーストリテイリング会長兼社長)

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Tadashi Yanai.jpg by Jigneshhn from Wikipedia 

柳井正ってこんな人

日本を代表する経営者の一人。

ファーストリテイリング代表取締役会長兼社長、ジーユー取締役会長、ソフトバンク社外取締役。

経営するファーストリテイリングの世界売上高は、スペインのZARA、スウェーデンのH&Mに次ぐ3位

時価総額では、ZARAに次いで2位

 

フラフラしていた青年時代

柳井正は山口県の出身です。

山口県宇部高校を卒業後、早稲田大学政経学部に入学しました。

在学中は、映画やパチンコ、麻雀などをしながら毎日プラプラしていたそうです。

就活時には大手商社を受けるもことごとく不採用

父親の勧めで、ジャスコに入社しました。

 

ジャスコの四日市店で家庭雑貨売場を担当するも、働くのが嫌になり9ヶ月で退職します。

その後、半年ほど友人の家に居候し、実家の小郡商事に入社しました。

 

柳井正と言うと、ユニクロの労働環境問題で各所から批判を受けているため、

若手時代からかなり自分に厳しく、真面目な青年だったのかと思っていました。

この経歴を見る限り、やりたいことが見つからずにフラフラしている若者そのものですね。

 

その後の柳井正

小郡商事で営む「メンズショップOS」は紳士服を中心に扱っていましたが、

洋服の青山やアオキと争うことを避け、カジュアル衣料を扱う着想を得ます。

そして、カジュアル衣料専門店ユニクロを出店し、社名をファーストリテイリングに改称します。

2000年代のフリースブームに端を発する快進撃はご存知のとおりです。

 

フォーブスによる日本長者番付で、柳井は2018年第2位。

資産額は、2兆210億円と推定されています。

 

柳井正の成功から思うこと

早稲田大学政経学部という学歴からもわかるように非常に頭の良い人なのだと思います。

頭が良く、何でもできてしまうあまり、自分のやりたいことを見つけられなかったのでしょう。

大手商社を受けて不採用になったり、最初に入った会社を9ヶ月でやめてしまうあたり、

フワフワして、人生に悩んでいる感じがあらわれていますよね。

 

小郡商事に入った時点で、「ここでやれることを頑張ろう」と切り替えたのかもしれません。

「やりたいことが見つからない」状態は、逆にいうと、「なんでもできる」ことの裏返しかもしれません

 

田中角栄(政治家)

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Kakuei Tanaka 197207.jpg from Wikipedia

田中角栄ってこんな人

第64・65代内閣総理大臣(1972年-1974年)。

在任中には、日中国交正常化、第一次オイルショックなどの政治課題に対応しました。

ロッキード事件に絡み、贈収賄の疑いで逮捕され、自民党を離党します。

強いカリスマ性を持ち、今でも尊敬する人が多い政治家ですね。

 

小卒で働き、職を転々とする

知っている方も多いかもしれませんが、角栄の最終学歴は小学校卒業です。

現代では、小学校卒で総理大臣になるなんて考えられませんよね。

中学には進学していませんが、小学校時代は勉学に優れ、級長を務めていたそうです。

 

小学校卒業後、角栄は土木工事の現場で働き始めます。

中学に進まなかったのは、実家が貧しかったことと母が病気だったという理由からだそうです。

 

土木工事の現場は1ヶ月ほどで辞め、その後柏崎の県土木派遣所に務めます。

その後、東京に出てからも、数々の職業を転々としました。

 

この男が総理大臣になるなんて、この時点では誰一人思わなかったことでしょう。

 

小卒から総理大臣へ

角栄は、戦中の1943年に自身の土建会社を設立します。

1945年11月には、会社の顧問だった代議士の要請で献金を行なったことをきっかけに、

郷里の新潟2区から立候補します。

その後、1947年4月、日本国憲法下での初の国政選挙となった総選挙で当選、代議士としての道を歩み始めます。

 

代議士となって以後、角栄は、閣僚や党幹部など重要ポストを歴任しますが、

小卒の角栄がこれほどの重用されたのは、彼の人心掌握術によるものだと言われています。

下っ端の官僚の名前やパーソナリティまで覚えて話しかけたり、

裏でお金を配ったりしていました。

 

また、非常に勉強熱心で、大蔵大臣就任にあたり、大蔵官僚に

「大蔵大臣は大変な仕事ですから、しっかり勉強してください」と言われ、

悔しくて涙を流しながら勉強したそうです。

 

そして、1972年には、とうとう総理大臣まで登り詰めます。

小卒から、日本の行政のトップになったのです。

 

田中角栄の成功から思うこと

角栄のすごいところは、小卒という学歴を逆手にとって、

あくまで泥臭く、時には強硬手段を使っても、自分が上に行けるように努力したことです。

自分のウィークポイントを逆に強みにしてしまうという豪胆さがすごいですね。

「学歴が低いから成功できない」なんて嘘だということがわかります。

 

とんねるず(お笑い芸人)

とんねるずってこんな人たち

石橋貴明、木梨憲武からなる2人組のお笑いコンビです。

1980年の結成後、1982年にオーディション番組「お笑いスター誕生」でグランプリを獲得します。

1980年代半ばから、『ねるとん虹鯨団』『とんねるずのみなさんのおかげです』など数々の人気番組を生み、

若者を中心に爆発的な人気を誇りました。

 

スターに憧れた二人

石橋は、東京都葛飾区の裕福な家庭に生まれるも、

小学校一年生の時、父・武夫の経営する「石橋化成」が倒産。

板橋区成増へ夜逃げしましたが、そこで父親が蒸発してしまったそうです。

テレビにたくさん出たのは、父親の目に留まるかもしれないと思ったからだとのことです。

 

一方木梨は、東京都世田谷区の自転車屋の息子として生まれます。

高校時代はサッカー部に所属し、部内ではムードメーカー的存在だったそうです。

同じ高校の野球部に所属する石橋とは、よくコンビを組んでネタをやっていました。

 

二人ともお笑いが好きで、テレビが大好きで、いつかは自分も演者側にという思いがあったのでしょう。

 

高校卒業後、一般企業に就職

石橋は、高校卒業後、ホテルマンとして就職します。

「パークハイアット」や「ホテルオークラ」などに勤めたそうです。

木梨も、高校卒業後、東京ダイハツの杉並営業所に就職します。

 

一般企業に就職した後も、素人参加のお笑い番組に、二人は出続けました。

当時はオーディション番組が多く、素人でもテレビに出やすい環境があったのでしょう。

 

1982年、「お笑いスター誕生」で10週勝ち抜き、グランプリをとった二人は、ついにプロデビューを果たします。

 

二人が就職したのは1980年頃ですから、

約2年ほどは、普通に働きながらオーディション番組に出続けていたことがわかります。

 

その後の二人

「オールナイトフジ」「夕やけにゃんにゃん」「ねるとん虹鯨団」「とんねるずのみなさんのおかげです」「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」

など、数々の高視聴率番組を作り出しました。

 

また、歌手としても活躍し、日本歌謡大賞を受賞し、ミリオンヒットも記録しました。

 

2005年まで公開されていた高額納税者ランキングでは、「俳優・タレント部門」のトップランク常連でした。

1980年以降の芸能人所得ランキングでは、小室哲哉に次ぎ2位にランクインしています。

 

とんねるずの成功から思うこと

とんねるずは前の二人と比べると、若い時から明確な夢があった方ですね。

柳井正は、「自分が今いる場所でがんばろう」となりましたが、

とんねるずの二人は、一般企業に就職した後も、芸能界への夢を持ち続けました。

その、夢を叶えるというモチベーションを、成功の原動力にしたのでしょう。 

 

三島由紀夫(作家)

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Yukio Mishima.jpg by Shirou Aoyama from Wikipedia

三島由紀夫ってこんな人

昭和期の作家、戯曲家、批評家。

戦後を代表する作家として知られ、その文学性の高さと美しい文体から海外でも人気が高い。

映画出演やレコード出版、ボクシングやボディビルディングなど、文筆以外の活動も多岐にわたる。

現代でも、世界的に非常に知名度の高い日本人の一人。

 

スーパーエリートコースを降りる

東京大学法学部を卒業後、大蔵省(今の財務省)に入省。

しかし、執筆活動に集中するため、わずか10ヶ月で大蔵省を退職します。

 

東大法学部から大蔵省という、日本のエリートの中でも最高の経歴ですが、

三島にとっては、小説を書くことだけが関心事だったようです。

 

大蔵省を辞める時は、かなり親に反対され、三島の両親は色々な作家のもとを、

「息子は作家として食べていけるでしょうか?」

と聞いて回ったそうです。

 

そりゃ東大出て大蔵省に入った息子が、急に「辞める」なんて言いだしたら不安になりますよね。

そのまま大蔵省にいれば、いずれ次官になって日本の財布を握っていたでしょう。

不安定で、大成するかもわからない作家の道を歩ませたくない親の気持ちもわかります。

 

その後の三島由紀夫

大蔵省を出て最初に出版した『仮面の告白』で一躍流行作家となると、

その後も『潮騒』『金閣寺』『午後の曳航』など、話題作を多数発表しました。

 

『美徳のよろめき』という小説で「よろめき」という言葉が流行語になったり、

三島は常に日本の文壇、文化の中心にいました。

 

また、作家としては異例の写真集を出したり、映画に出たり、

歌を歌ったり、ボディビルをやったり、私設軍隊を組織したりと

その派手な行動で、常にジャーナリズムの渦中にありました。

 

作家としての名声を高めていった三島は、ついにノーベル賞候補にまでなりましたが、

1970年11月25日、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決しました。

  

三島由紀夫の成功から思うこと

三島由紀夫は、「小説家になることが夢ではなかった」と言います。

もちろん、この言葉には若干の誇張もあるでしょうが、

彼が言いたいのは、自分にとって小説を書くのは自然なことであり、

それ以外にするべきことがなかったということでしょう。

 

親の強い勧めから一時は大蔵官僚になりますが、

作家と官僚の二重生活に耐えきれず、専業作家として独り立ちします。

 

彼の成功は、「自分にとって最も自然な状態は何か」を考え、

その結果、仕事を辞めてから得られたものだったということがわかります。

 

まとめ

この記事で紹介した5人は、すべて、ある分野において頂点をとった人々です。

 

あなたは、こうした人々を見て、

 

「あの人には才能があったから」とか、

「あの人は小さい頃からずっとそれをやり続けていたから」とか、

「あの人は運が良かったから」とか

 

思ったりしたことありませんか?

 

ところが、今見てきたとおり、その過程は実に様々でした。

 

自分のやりたいこともわからずフラフラしていた柳井正のような人もいれば、

小卒という学歴を逆に利用してのし上がってきた田中角栄のような人もいました。

あるいは、憧れの舞台を夢見続け、就職後も挑戦し続けたとんねるずや、

安定と最高の名誉を捨て、先の見えない作家の世界に飛び込んだ三島由紀夫もいました。

 

彼らの共通点を見つけることは容易いかもしれませんが、

それでも、一見したときには、異なる点ばかりが目につきます。

 

成功した人を見て、

「自分は◯◯で彼らは××だから」と言う人がよくいますが、

 

今見てきた通り、成功にはパターンなんてないんです!

 

どんな人でも、何らかの分野で成功する可能性を秘めており、その方法は一通りではありません。

 

方法論や、「成功者に共通するパターン」とかの言葉に惑わされず、

迷って迷って悩んで悩んで、もがきながら進んでいきましょう。

 

一つひとつのことを自分の頭で考えて進んでいくことが大事です。

 

後から見た時にその軌跡がジグザグに見えても、

その経験はきっとあなたを助けてくれます。