今回は、ゲームではなく本の紹介です。
題名は、『岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた。』。
2015年に亡くなった任天堂の元社長である岩田聡さんが、生前にインタビューなどで話していた言葉を一冊の本にまとめたものです。
世界で一番愛された経営者
任天堂の岩田聡元社長が亡くなってから、もうすぐ5年が経とうとしています。
私の青春は、ゲームとともにあったので、当然、岩田さんのことも就任当初からよく知っています。
社長らしからぬ物腰の柔らかさと優しげな風貌で、「いわっち」と呼ばれ、ゲーム業界の人たちやゲームユーザーに親しまれていました。
亡くなった時は、TwitterなどのSNSで世界中から追悼のメッセージが書き込まれたり、ファンアートが描かれたりしました。
ライバルハードであるPlayStationの公式アカウントでも追悼のツイートがされるほどでした。
ゲーム人口の拡大を目標としていた
岩田社長は、就任以来、終始「ゲーム人口の拡大」というテーマを掲げていました。
時には既存ユーザーの反発を招くことになっても、あくまでも、ゲームを「今まで触ったことのない」人たちにプレイしてもらわなければ、業界として先細りだという持論を固く持っていたのです。
当時掲げた「ゲーム人口の拡大」という目標は、DSやWiiで達成されました。
どちらも、ゲームハードとしては空前の大ヒットを記録し、日本でも一大ムーブメントを見せました。
あそこから、ゲームがそれまでよりもっと一般大衆に浸透していった気がします。
その後の時代は、任天堂にとって最大のライバルとなりうるスマートフォンが登場しましたが、任天堂自らモバイルゲームへ参入することで、さらなるゲーム人口拡大の舞台を手に入れることになりました。
コンシューマーゲーム一筋だった任天堂が、ぽっと出のモバイル端末に向けてゲームを出すべきなのか、モバイルで本当に任天堂が出したいゲーム性の高いゲームがプレイできるのか、決断には大きな葛藤が伴ったはずでしたが、最終的に、岩田社長がGOサインを出しました。
「ゲーム人口の拡大」というテーマは、最後までブレませんでした。
天才プログラマーとして
岩田さんは、天才でした。
と言っても、傍目にわかりやすい奇行を行うような天才ではなく、論理を武器に自身の理論を補強し、どうすれば人に喜んでもらえるゲームを作れるかを考える天才でした。
有名なのは、『MOTHER2』開発時の逸話です。
当時、『MOTHER2』は4年の歳月をかけても完成せず、製作が非常に難航していました。
そこに現れたのが、当時HAL研究所社長だった若き岩田聡氏です。
「今あるものを活かす方法だと完成に2年かかります。一から作り直して良いのであれば半年でやります」
しびれますね。
その後、『MOTHER2』は、本当に半年で完成したそうです。
Nintendo Directを始めたのも岩田社長
今でこそ数ヶ月に一回のお楽しみとなっているNintendo Directですが、以前は任天堂からの公の場での新作発表は、E3か任天堂カンファレンスくらいしかありませんでした。
Nintendo Directは、社長である岩田さんとゲームの開発者たちが、「直接!」ユーザーにゲームの紹介を行うことで、そのタイトルの魅力をよく伝えたいと思って始めた試みです。
自社の商品の良さをあんな形で世間に発信しようとする社長は、世界広しと言えども岩田社長くらいです。
岩田社長は逸話がたくさん
『岩田さん 岩田聡はこんなことを話していた』には、そんな岩田社長の面白エピソードがたくさん掲載されています。
個人的に嬉しかったのは、岩田社長の高校時代のエピソードを知ることができたこと。
北海道の高校生だった岩田社長は、家電量販店のパソコン売り場に行き、展示品のパソコンでプログラムを書きながら、コンピュータに詳しくなっていったそうです。
その後の岩田社長に通ずる探究心の出発点は、北海道の電気屋だったんですね。
他にも数多くのエピソードが載っています。
宮本茂氏との関係、マネジメントの仕事、スマブラ開発時の話、これからの任天堂……などなど、岩田社長と任天堂を知るための要素がたくさんです。